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ECONOMICS

 

ケインズ経済学のスタート−学問の保守性(98.12.27)

 


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経済学の歴史をひも解くと、いわゆる古典派経済学、ケインズ経済学、新古典派経済学、近代経済学と分けられます。その中で「ケインズ」という言葉は、皆さん1度は聞かれたことがあるとは思いますが、元は人の名前です。

詳しくは、書くとそれだけで本が何冊も出ていますので省略しますが、そんな彼の経済学の基本的な立場の中で、現在我々が身近に感じることが出来るのは、政府が景気の変動において大きな役割を果たしうる、という部分です。

いわゆる市場至上主義である「見えざる手」の古典派などとは違い、市場の失敗の存在を前提に、総需要管理政策(マクロ的視点で政府が政策を行うことの優位性)を唱えています。

昨今の日本の景気対策のおける特別経済対策や減税などはそのいい例です。景気が悪い時は政府が財政支出でもって国を支えるというもので、いわゆる「小さな政府」論やマーケットメカニズムの卓越が進む中、いまだ処方箋を講じる際の考え方の基礎になっています。

こんなケインズ経済学は、イギリスの経済学者ケインズが発表した「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1936)によって世間に登場し、瞬く間にマクロ経済学の基礎を築き上げました。この「一般理論」は、経済学の歴史の中でもっとも影響力の大きな書物の1つとして、長く経済学の古典として残り、これからも経済学の発展に大きな貢献をしていくことは疑う余地もないと言われています。

しかしながら、こんなケインズ経済学でさえも、発表当時は実は共産主義と見られていました。すなわち、国家による経済の統制だと捉えられたのです。もちろん市場の存在を肯定している点(価格の変動や雇用や利子についてのマーケットを通じた調整)や所得の再分配の効率性を重要視している点、なにより個人の所得を認めている点で明らかに違うのですが、当時はなかなか受け入れられなかったようです。

天動説と地動説のような感じかもしれません。かのガリレオは、当時通説だった天動説に異を唱えた地動説訴えた事で裁判にかけられました。(地動説とは字のごとく「地(地球)」が「動いている」、天動説は、「天(空)」が「動いている」という主張のこと。当時キリスト教の間では、天動説が主流であった。)

その際有名な言葉「それでも地球は回っている」を彼は言ったわけです。まあそれに比べてケインズはこのような迫害を受けたわけでもなく、しばらくしてイギリスの大蔵省代表となり、経済政策を担うまでになりました。

どの学問も、斬新なアイディアは、保守的な層によって、あるいは人間の持つ本質的な保守観念でもってまずは否定的にとられがちです。そんな既存の概念を打ち破れるインパクトこそが、画期的な理論であることの証明なのでしょう。ここから先は、学問全般の話しになって僕の守備範囲を超えるので後はみなさんに議論をお任せします。

ただ経済界においても、ここ数年の日本では、いわゆる日本的慣行が崩れ、新しいスタイルにが垣間見えてきています。リスクに対する考え方の変化や、規制緩和による競争原理の徹底、取り引き慣行の瓦解など、国際環境の変動と共に大きな変革期であることは
間違いありません。最低でも、「今はそういう時期なんだ」という意味での危機意識を持つことがそれを乗り切る上での必務となるでしょう。

■ジョン・メイナード・ケインズ(1883−1946)

ケンブリッジ大学卒業。
インド省にしばらく勤めて1908年ケンブリッジ大学に戻り、フェローとなる。(大学の助手のようなものでしょうか)この頃から経済学者としての仕事が本格的に始められる事になる。しかし、いわゆる象牙の塔に閉じこもるタイプではなく、政治、経済、文化の広範な分野にわたって優れた才能を持ち、多彩な活動を行った人であった。

第1次大戦後、ベルサイユ平和会議に、イギリスの大蔵省首席代表として参加する。その後カレッジの経営責任者になったり、保険会社の重役に就任したり、劇場の創設に関与したりした。

そして1936年、1つの革命ともいわれる「一般理論」をしるす。詳しい中身は専門的なので割愛するが、その難解さは、日本を代表する経済学者、宇沢弘文をして「一読して、その全体像を理解できる人はおそらくいないのではなかろうか。」と言わせるほど。

第2次大戦中は、政府に入っていくつかの重要な国際交渉に携わり、戦後は新しい国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行の創設に、イギリスの代表として関与した。

1946年4月21日、心臓病の発作でその多彩な一生を終える。

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